上の写真は、この3月、ベトナムへ出張した際に撮ったもの。この紫色と赤色のライトを基調とした雰囲気に包まれた私は、何となく、昔みた「ブレード・ランナー」という映画の中に出てきた、未来のアジアの繁華街のシーンを連想した。
ここは、ホーチミン市、レタントン通りから南側に一本露地を入ったところ。この界隈は、日本人ビジネスマンが多く居住していて、日本の食材店が何軒もあったり、日本の漫画喫茶があったりと、日本人向けの店がたくさんある特異なエリアだ。この照明の色のせいか、何となく「子供は来ちゃいけませんよ」的な、怪しげな雰囲気がいい。ぶら下がっている提灯をアップで見ると、
この日本人が書いたものではない「日本町」の文字が、異国情緒をさらに醸し出している。実際、日本にはこんなところはないんだけど、このベトナム人が作ったと思われる日本のイメージが、私には新鮮で、ここにしかないというオリジナリティを感じる。
このあたりがこんな風になったのは、ここ何年かのことだと思う。私も日本人ビジネスマンといえばそうなのだが、日本人ばっかりのところに行っても面白くないなと、ずうっと思っていて、これまであまりこの界隈に立ち寄ることはなかった。でも今はこんな風に不思議な空間になっていて、最近になって、行くようになった。
さて、この界隈の焼き鳥屋さんに入った。5〜6人いる店員さんは、全てベトナム人の若い女性。注文したり会計したりなど、無論日本語が通じる。座ったカウンター席はちょうど炭火で焼くところの前。炭火で熱い中、丁寧なその仕事ぶりは、さすがベトナム人という感じだ。
日本のブロイラーの鶏よりおいしい。そして店内の様子はというと、
メニューはもちろん日本語で、客は仕事帰りの日本人ビジネスマンばかり。時間は7時か8時ぐらいだった。すっかり新橋あたりの焼き鳥屋さんに迷い込んだような雰囲気だ。この焼き鳥屋さんで一杯やった後、次にラーメン店に入った。注文したラーメンはこれ。
去年行った台北のラーメン店もそうだが、ここサイゴンのラーメン店も豚骨が圧倒的だ。日本のチェーン店の豚骨ラーメンよりおいしい。
このラーメン店の客も日本人ばかりかと思いきや、若いベトナム人女性の二人連れ客もいた。二人で一つのラーメンや料理を注文していて、各品を二人の真ん中に置いて吟味しながら食べていた。若い人たちの間では、世界中で、日本モノが結構もてはやされているみたいだが、これもその一つなんだろうか、と思ったりする。
この界隈のこの雰囲気の中にいると、「これはいつの時代なのか? またここはどこなのか?」と、時間と空間の感覚がゴッチャになってしまう。日本のようでもありベトナムのようでもあり、現代のようであり一昔前のような、そして未来のような気もする独特なものだ。それが何とも不思議で刺激的。そして「このゴッチャになった感覚はいったい何だろう?」とふと思った。
グローバル化と言うが、だんだん世界中が混じり合っているんだと思う。それは、浸透圧の実験のように、国境という名の膜で仕切られたコップの中に濃い液体と薄い液体があるようなものだ。それは平衡状態になるまで混じり合う。
豚骨ラーメンは、日本の地方の国道沿いのラーメン店でも食べられるが、ホーチミンでも、ニューヨークでも食べられる。ちょっと前までは、ベトナムで(日本の)ラーメン店に入るのは、日本人ぐらいだったと思うが、今やベトナムの若い人たちも気軽に食べに来る。ちなみに、上の写真のラーメンは、8万ドン(400円ぐらい)。たぶん、東京で食べると600円ぐらいかな。そんなに大きな差ではない。一方、日本の百均ショップでは、ベトナム製陶器がいっぱいあり、「あっ、これベトナムの市場で見たことある」ということも珍しくない。ネットや交通・運搬手段がどんどん世界中で普及して、どんどん世界中が混じり合っている。近い将来は、世界中のどこでもだいたい「同じような」ものが食べられ、「同じような」サービスが受けられるようになるような気さえする。
ただそれらは「同じような」であり、「同じ」にはなり得ない。そこに見直されるべき価値がある気がする。「同じような」ものは、珍しくなく世界中にあるようになるのだから。
どこにでもある「同じようなもの」と、ここにしかない「同じもの」。
この2つは今でも身の回りにたくさんあるが、混じり合うことがもっと進み、「同じような」が多くなればなるほど、「同じ」の希少価値が高まるのだ。ただこれは、単純に「同じような」の価値が下がる訳ではない。「同じような」の中から、新しい個性を持った「同じような」も生まれると思うからだ。
紫と赤のライトに包まれたサイゴンの裏露地を歩いていて思った。
2016年5月13日金曜日
サイゴン・マジェスティックホテル 103号室
上の写真は、ベトナムはサイゴン(現・ホーチミン)の老舗ホテル、マジェスティックホテルの103号室の入口。ドアの左側に金色のプレートが掛かっている。それをアップで見ると・・・・。
暗いところでフラッシュ焚かずに撮ったので、ちょっと読みにくい。文字打ちしてしまおう。
日本の作家開高健は一九六四年末から六五年までサイゴンに
滞在して、開高健はマジェスティック・ホテル一〇三号室に滞在していました。
(現ホーチミン市)毎週、開高健は 週刊朝日にいろいろな記事を
よく送りました。また ベトナム戦記について書きました。
(この日本語の下にベトナム語)
開高健を知らない若い人たちに誤解のないよう付け加えるが、彼はこの部屋に閉じこもっていた訳ではない。命がけで戦場に足を運び、そのルポルタージュの原稿をこの部屋で書いた。「(ベトナム全土の戦争だから)このホテルさえも戦場になり得る」といった下りもあるらしいが。
それにしてもこのプレートの日本語、いくら開高健の記録とは言え、この短い文章の中に「開高健」が3回も出てくるし、全体的にちょっとおかしな日本語だ。日本語の上手なベトナム人が書いたのかなという感じがする。
この写真は、2013年、(単に私の出張ではなく)食の学校のツアーで、このホテルの他の部屋に泊まった際に撮ったものだ。まー、そんな機会でもない限り、私が泊まるようなホテルではないので、ミーハー心でこの103号室の前まで行ってみたのだった。この部屋に泊まるためには、ずいぶん前から予約を取らねばならないと聞いたことがある。
でまぁ、今改めて読んでみても、やはり変な日本語だ。
・・・・でだ。
ついこのあいだベトナムへ出張した際、偶然にもこのこのプレートの代替え品に出会った。正確には、代替え候補品なのだが。このマジェスティックホテルのプレートを見て、「もっとちゃんとしたい」と思った開高健の関係者が、日本で新たに作り直したものだった。そのお気持ち、よく分かる。それが下の写真。縁取りのデザインは踏襲されていている。四隅のねじ穴もキッチリ測って開けられているはずだ。
こちらはさすがにちゃんとした日本語だ。(読みにくいと感じたら画像をクリックしてください。大きくなります) ただひとつ、ベトナム語がなくなっちゃったのはちょっと残念。やはり現地言語は尊重したいという気持ちが私にはある。ねじ穴でサイズが限定され、日本語と英語で、スペースがいっぱいになってしまった、ということかなぁとは思うが。
でも、英語の最後。“....wrote a series of historic Vietnam War reportages that spurred antiwar movement in Japan.”の下りには、胸を打たれる。日本は今、当時に比べ、確実に平和ボケしていることを、“antiwar movement in Japan”という言葉から感じとれる。また、「この部分が日本語になっていないのはどういうことだろう?」と深読みしたくなってしまう。まっ、それはそれとして、「ベトナム戦記」まだ読んでないので読まなくちゃ。
さて、先に、このプレートは代替え候補品と書いた。私がこの写真を撮ったのは3月末。事前に代替え品の話はしているらしいのだが、この後マジェスティックホテルは現物をチェックし、承認を得られたら、掛け替えとなるらしい。この写真を撮ってから一ヶ月半が過ぎた今頃は、103号室の脇に掛けられているだろうか。
暗いところでフラッシュ焚かずに撮ったので、ちょっと読みにくい。文字打ちしてしまおう。
日本の作家開高健は一九六四年末から六五年までサイゴンに
滞在して、開高健はマジェスティック・ホテル一〇三号室に滞在していました。
(現ホーチミン市)毎週、開高健は 週刊朝日にいろいろな記事を
よく送りました。また ベトナム戦記について書きました。
(この日本語の下にベトナム語)
開高健を知らない若い人たちに誤解のないよう付け加えるが、彼はこの部屋に閉じこもっていた訳ではない。命がけで戦場に足を運び、そのルポルタージュの原稿をこの部屋で書いた。「(ベトナム全土の戦争だから)このホテルさえも戦場になり得る」といった下りもあるらしいが。
それにしてもこのプレートの日本語、いくら開高健の記録とは言え、この短い文章の中に「開高健」が3回も出てくるし、全体的にちょっとおかしな日本語だ。日本語の上手なベトナム人が書いたのかなという感じがする。
この写真は、2013年、(単に私の出張ではなく)食の学校のツアーで、このホテルの他の部屋に泊まった際に撮ったものだ。まー、そんな機会でもない限り、私が泊まるようなホテルではないので、ミーハー心でこの103号室の前まで行ってみたのだった。この部屋に泊まるためには、ずいぶん前から予約を取らねばならないと聞いたことがある。
でまぁ、今改めて読んでみても、やはり変な日本語だ。
・・・・でだ。
ついこのあいだベトナムへ出張した際、偶然にもこのこのプレートの代替え品に出会った。正確には、代替え候補品なのだが。このマジェスティックホテルのプレートを見て、「もっとちゃんとしたい」と思った開高健の関係者が、日本で新たに作り直したものだった。そのお気持ち、よく分かる。それが下の写真。縁取りのデザインは踏襲されていている。四隅のねじ穴もキッチリ測って開けられているはずだ。
こちらはさすがにちゃんとした日本語だ。(読みにくいと感じたら画像をクリックしてください。大きくなります) ただひとつ、ベトナム語がなくなっちゃったのはちょっと残念。やはり現地言語は尊重したいという気持ちが私にはある。ねじ穴でサイズが限定され、日本語と英語で、スペースがいっぱいになってしまった、ということかなぁとは思うが。
でも、英語の最後。“....wrote a series of historic Vietnam War reportages that spurred antiwar movement in Japan.”の下りには、胸を打たれる。日本は今、当時に比べ、確実に平和ボケしていることを、“antiwar movement in Japan”という言葉から感じとれる。また、「この部分が日本語になっていないのはどういうことだろう?」と深読みしたくなってしまう。まっ、それはそれとして、「ベトナム戦記」まだ読んでないので読まなくちゃ。
さて、先に、このプレートは代替え候補品と書いた。私がこの写真を撮ったのは3月末。事前に代替え品の話はしているらしいのだが、この後マジェスティックホテルは現物をチェックし、承認を得られたら、掛け替えとなるらしい。この写真を撮ってから一ヶ月半が過ぎた今頃は、103号室の脇に掛けられているだろうか。
2016年5月9日月曜日
自前の船で、醤油搾り
今年の新しいことは、何と言っても、船(搾り器)が自前になったこと。
いつもモロミを管理してくれている埼玉・秩父の黒澤氏が、昨冬、秩父の大きな古い農家にある蔵の整理を手伝っていたら、その蔵の中から、昔使っていた醤油の船(搾り器)が出てきたというのだ。おそらく何十年も使われていなかったので、復活にあたり、やや直しが必要なところがあったものの、十分に使えた。秩父には、「おなめ」と呼ばれる醤油のモロミに砂糖を加えて甘くした発酵保存食品が今でもある。モロミを食す食習慣が秩父にはあるのだが、私が想像するに、昔はそのモロミを搾って醤油を作っていたのではないかということ。しかし、搾るのは手間なので、今では簡単にそのモロミを甘くするなどして食されている、なーんて思うのだ。
そして、ビックリしちゃうが、古い蔵から醤油の船(搾り器)が出てきて、それを譲り受けたという同じような話しが、やはり埼玉・比企郡の川上氏にも今年あり、彼も今年は、自前の船(搾り器)で醤油を搾ったという。川上氏は、この3月10日の黒澤氏の搾りに、見学を兼ねて参加していた。
たまたま同じようなタイミングで、昔の船(搾り器)が2つも出てきて復活したということだが、こんな偶然ってあるんだろうか? と不思議な気分。そもそも自分たちで醤油を搾っていて、それを必要とする人たちが何人いるのか? 数十年も前に使われていた醤油の船(搾り器)が今一体いくつ残っているのか? 等々、考えれば考えるほど、不思議な出来事だと思う。しかし、数十年前までは、いろんな場所・地域で、醤油搾りが行われていたということは、言える。今のように、「醤油は買うモノ」が常識になったのは、この何十年かであって、その前までは、各地で(自分たちで)搾っていたのだ。それを私たちは忘れてしまっている。
以前、ドブロクについてのエントリで、私は下記のように書いた。
現代は、何でも「買う」ことが当たり前になってますね。便利って言えば便利だけれど、本当は、「自分で作る」がまずありきで、「自分で作れないもの」を「買う」ということだと思う。
●natural salt cafe: ドブロクのススメ(2014年1月30日)
さて、自前の船(搾り器)の復活デビューが一番の新しいことだったが、もう一つ、(今年の搾りのための)去年の仕込み直後に、温室のような醤油小屋を作ったことも以前のエントリで書いた。それがどのくらいの効果をもたらすかも、今回の搾りの注目点だった。
●natural salt cafe: 醤油小屋(2015年6月22日)
この醤油小屋は、去年お願いした搾り師の天野次郎氏のアドバイス「夏場の温度上昇が足りないのではないか?」を頂いて、作ったものだった。それまでは、吹きっさらしの軒下(南向き)にモロミの樽を置いていたのだが、それを温室に入れて、夏場の温度上昇を促した。結果、旨みが増した。色は、去年のゴールデンから濃いアメ色に変わった。香りも一段とよくなった気がしている。今年、天野搾り師に搾りをお願いしないのはやや負い目があるが、船(搾り器)を入手してしまっては仕方がないかと思う。
下の写真は、今年の搾り始め。
そして、搾り終わる頃は、
ちっとカメラのアングルが違うので分かりにくいが、去年と同様に、搾り終わりの頃の方が、透明度が増し、旨み・香りが増し、おいしい。去年の搾り時のエントリは、以下。
●natural salt cafe: 搾り師の醤油搾り(2015年3月17日)
やはり、ギューっと搾って、大豆の中心部からしみ出てくる醤油の方がうまいということか。「一番搾り」を珍重するオリーブの搾りとは反対なのだ。オリーブオイルはいわば、果実をそのまま搾ったジュースだけど、発酵・熟成したモロミ(大豆・小麦・塩)が搾られた醤油は、「最終搾り」がうまい。「一番搾り」というキレイに聞こえる言葉の響きに囚われてはいけない。
さてさて、搾りたての醤油は、当日少量もらってきたが、火入れ後の醤油を取りに秩父へいかなくちゃ。我が家は、この連休中、引っ越ししてバタバタ。なかなか行けないでいるのが気がかりだ。我が家の醤油が切れてきた。
2016年4月26日火曜日
活きタケノコかぶりつきの夢
先のエントリで、「大根おろし法」という簡単なタケノコのアク抜き方法を書いたが、きょうもタケノコの話。
長年、私にはタケノコにまつわる夢がある。夜見る夢でなく、「夢見る乙女」の方の夢だ。冒頭の写真は、我が家(東京・昭島市)の近所の竹藪(真竹)だが、所有者は不明。町に住むとなかなか私の夢の実現は難しい。
先のエントリでも触れたとおり、下記の先人の言葉は、いつも私の心の奥底で静かに息づいている。
「タケノコ掘りに行くときは、台所で湯を沸かしながら、行くものだ」
「タケノコは、掘った(根から切り離した)とたんに、アクが出てくる」
そして、つい先日、サムライ菊の助さんのブログで、
「タケノコは、掘ってから30分以内にゆで始めなければならないのである」
とのお言葉。
つまりは、「掘ってから、出来るだけ短い時間にアク抜きするといい」ということだ。
・・・・ならばだ。
その「出来るだけ短い時間」や「30分」をいっそのこと「ゼロ」にしたらいいではないか! つまりは、生えてるタケノコにかぶりついたらいいいいではないか! と、20〜30年ぐらい前に思いついた。これが私の「活きタケノコかぶりつきの夢」だ。
この夢を思いついたキッカケは、30年ほど前の5月、紀州の山の中にある友人宅に泊まっていたときのこと。私は、窓越しに竹林がある部屋に寝ていたのだが、深夜未明、突然「バリバリ、バリバリ」と窓を隔てた竹林でスゴイ音がした。怪獣がビルを叩き壊すような音。私は真っ暗の中、飛び起きた。耳をひそめると、何か大きな動物が、竹林の中を少し歩いては「バリバリ、バリバリ」と数回繰り返した。30分もすると、音がしなくなったので、私は再び眠りについた。翌朝、友人にその話をすると、「あー、そりゃ、イノシシだ」とのことだった。「バリバリ、バリバリ」は、イノシシがタケノコをかじっていた音だったのだ。そしてその竹林に行ってみると、イノシシの背丈ぐらいにのびたタケノコが数カ所、荒々しく食べられていた。「イノシシって、タケノコ食うんだー」と思った。
それ以来、何度か(アク抜きした)タケノコを食す機会があったが、その度毎にあの「バリバリ、バリバリ」を思い出す。そして、「あのイノシシが食っていたタケノコは、アクはなかったんだろうか?」とも思った。そして、もしかしたら、「生えたままのタケノコは、アクがない(またはほとんどない)」ということかも知れない、と思い至ったのだった。先に書いたの先人の言葉と繋がった。
先のエントリでも書いたとおり、タケノコは、適度なアクがあった方がいい。でも、たとえ掘って30分でも、アク抜きが必要なタケノコを、生えたままかぶりついたらどんな味がするのかを、死ぬまでに一度は確かめてみたいのだ。あのイノシシだって、真夜中とはいえ、リスクをおかして人家に近づいて次から次へとバリバリ食べていたのだから、それはそれはおいしいものなのかも知れない。
まだ実現はしてないものの、そこまで思っているので、私の中でシミュレーションはかなり出来上がっている。
冒頭に書いたとおり、現在私は町に住んでいて、なかなかその機会はない。田舎に住む知人の中には、近所の竹林でタケノコ掘りが出来る人がいよう。その人に頼めばいい。だが、こういうのって不思議なのだけど、本当にやってしまったら、夢が終わっちゃうんじゃないかという寂しさへの不安も同時にあって、ずうっと20〜30年やれずにいる。普段は忘れているだけど、毎年、この時期になると、思い出すのだ。
きっと「そのとき」は、自然とやって来るものだと思っている。
長年、私にはタケノコにまつわる夢がある。夜見る夢でなく、「夢見る乙女」の方の夢だ。冒頭の写真は、我が家(東京・昭島市)の近所の竹藪(真竹)だが、所有者は不明。町に住むとなかなか私の夢の実現は難しい。
先のエントリでも触れたとおり、下記の先人の言葉は、いつも私の心の奥底で静かに息づいている。
「タケノコ掘りに行くときは、台所で湯を沸かしながら、行くものだ」
「タケノコは、掘った(根から切り離した)とたんに、アクが出てくる」
そして、つい先日、サムライ菊の助さんのブログで、
「タケノコは、掘ってから30分以内にゆで始めなければならないのである」
とのお言葉。
つまりは、「掘ってから、出来るだけ短い時間にアク抜きするといい」ということだ。
・・・・ならばだ。
その「出来るだけ短い時間」や「30分」をいっそのこと「ゼロ」にしたらいいではないか! つまりは、生えてるタケノコにかぶりついたらいいいいではないか! と、20〜30年ぐらい前に思いついた。これが私の「活きタケノコかぶりつきの夢」だ。
この夢を思いついたキッカケは、30年ほど前の5月、紀州の山の中にある友人宅に泊まっていたときのこと。私は、窓越しに竹林がある部屋に寝ていたのだが、深夜未明、突然「バリバリ、バリバリ」と窓を隔てた竹林でスゴイ音がした。怪獣がビルを叩き壊すような音。私は真っ暗の中、飛び起きた。耳をひそめると、何か大きな動物が、竹林の中を少し歩いては「バリバリ、バリバリ」と数回繰り返した。30分もすると、音がしなくなったので、私は再び眠りについた。翌朝、友人にその話をすると、「あー、そりゃ、イノシシだ」とのことだった。「バリバリ、バリバリ」は、イノシシがタケノコをかじっていた音だったのだ。そしてその竹林に行ってみると、イノシシの背丈ぐらいにのびたタケノコが数カ所、荒々しく食べられていた。「イノシシって、タケノコ食うんだー」と思った。
それ以来、何度か(アク抜きした)タケノコを食す機会があったが、その度毎にあの「バリバリ、バリバリ」を思い出す。そして、「あのイノシシが食っていたタケノコは、アクはなかったんだろうか?」とも思った。そして、もしかしたら、「生えたままのタケノコは、アクがない(またはほとんどない)」ということかも知れない、と思い至ったのだった。先に書いたの先人の言葉と繋がった。
先のエントリでも書いたとおり、タケノコは、適度なアクがあった方がいい。でも、たとえ掘って30分でも、アク抜きが必要なタケノコを、生えたままかぶりついたらどんな味がするのかを、死ぬまでに一度は確かめてみたいのだ。あのイノシシだって、真夜中とはいえ、リスクをおかして人家に近づいて次から次へとバリバリ食べていたのだから、それはそれはおいしいものなのかも知れない。
まだ実現はしてないものの、そこまで思っているので、私の中でシミュレーションはかなり出来上がっている。
- 天気のいい4月中旬から5月中旬、長靴を履いて竹林へ(出来たら孟宗竹)行く。持ち物は、小さなスコップ・ナイフ・お醤油・塩・山椒の葉。
- 少し土の盛り上がった食べ頃のタケノコさんの周りの土をスコップで軽く掘り、表れる皮をナイフで剥き、柔らかな先っちょ(7〜8センチ)を露出させる。(たぶんそれは地面よりも低い位置になるだろうから、先っちょの周りの土を大きめのドーナツ型に掘ることになろう)
- 腕立て伏せをするように、両手をその先っちょの左右両側につき、(イノシシのように)露出した先っちょに、まずはかぶりつく。
- 味をみて、調味料が欲しいようなら、別の露出した先っちょに塩をかけたり、お醤油を垂らしたり、山椒の葉を少しのせたりして、改めてかぶりつく。
- 次に、また別のタケノコの先っちょだけをナイフですっと切って、即、口に入れる。これは「掘って(切って)から3秒ぐらい」になろうか。もちろん、オプションで調味料類。
冒頭に書いたとおり、現在私は町に住んでいて、なかなかその機会はない。田舎に住む知人の中には、近所の竹林でタケノコ掘りが出来る人がいよう。その人に頼めばいい。だが、こういうのって不思議なのだけど、本当にやってしまったら、夢が終わっちゃうんじゃないかという寂しさへの不安も同時にあって、ずうっと20〜30年やれずにいる。普段は忘れているだけど、毎年、この時期になると、思い出すのだ。
きっと「そのとき」は、自然とやって来るものだと思っている。
2016年4月20日水曜日
大根おろしで、タケノコのアク抜き
桜が散ると、心の中にしばしの間あった桜の記憶もすっかりなくなってしまうのは、どういう訳だろう。「桜が散ると、暖かくなるんだ」と誰かが言ってたが、そんな陽気がこの2〜3日続いている東京です。熊本は、地震で大変だが、我が町・東京だって、いつあのぐらいの地震が来てもおかしくないことを改めて思う。台風が来たら雨戸を閉めるぐらいの感覚で、川内原発もとりあえずは止めなきゃね。伊方は今は休止中でよかったけど、7月下旬には再稼働の予定があるらしい。
さて、4月の半ばを過ぎると、やっぱりタケノコです。でもタケノコは、アク抜きが面倒だ。かといって、すっかりアクが抜けきった水煮缶のようなタケノコは、中華なんかではしばしば登場し、その食感を楽しませてくれるが、本来タケノコは、このアクというかエグ味を感じて「あー、タケノコだー」と感じるものでしょ。しかし、そのエグ味は、ほどほどでないといけない。そこで、「自分でアク抜き」となる訳だが、これがなかなか面倒なものだ。
サムライ菊の助「畑日記」の4月12日のエントリ「竹の子の水煮は柔らかく煮てはいけない」を読むと、
「竹の子は、掘ってから30分以内にゆで始めなければならないのである」
とある。サムライ菊の助さんは、ツバキの葉を使う点も、特筆もの。そして他の人からもまた、
「タケノコ掘りに行くときは、台所で湯を沸かしながら、行くものだ」
と聞いたことがある。つまり、「タケノコは、掘ったとたんにどんどんアクが強くなる」ということなのだが、それを聞くと、正直「そらりゃー、恵まれてるぜ」と、東京に住む私は言いたくなる。どちらも、自分ちの、または仲のいい人の竹林がすぐそばにおありの方だからこそ言える台詞だからだ。私の場合、東京といってもちょっと郊外の昭島市なので、近所に竹藪(真竹だけど)があるが、(知らない)人様のものなので、そこのタケノコは食したことはない。また、孟宗の竹林のある公園なんかに行くと、「タケノコを掘らないでください」なんて立て札があったりして失笑する。公園の竹林でタケノコを掘った輩がいたということだ。夜にでも忍び込んだのか。まさか白昼堂々とはいくまい。何ともいい根性しているなと思うが、余程のタケノコ好きだったのだろう。(もちろん、泥棒はいけないことです。よい子の皆さんはくれぐれも真似しないように)
さてさて、前置きが長過ぎた。
きょうは、その面倒なタケノコのアク抜きの新技の紹介です。
先日、カミさんが、人から聞いた話として、「大根おろしでアク抜き」という方法でアク抜きしてくれた若竹煮を食したが、ちょうどいいアク抜き加減だった。ちなみに、この簡単な方法の出所は、「分とく山」の野崎さんが、NHKでやってたとのことだった。(「分とく山」には行ったことはないが、私にとって野崎さんは「きょうの料理」などでお馴染みで、その料理・お人柄などのファンの一人である)
したがって、カミさんも私もその番組を見た訳ではなく、聞き伝えであり、何となく「こんな風に理解していて、結果的にうまくいった」という方法を下記に記します。
無論、大根おろしの量は、タケノコの量をみて加減してください。何しろ時間にして、1時間と少しあれば、生のタケノコの料理を始められる。火も使わず簡単だ。サムライ菊の助さんが忠告する「竹の子の水煮は柔らかく煮てはいけない」は、アク抜き段階でのことなので、この「大根おろし法」だと、料理の際に気をつければいいこととなる。
掘ってからの時間などによって、タケノコのアクは異なるから、大根おろしの量または濃度(水との割合)を変えたり、漬けてる途中で一度大根おろしを新しいのに入れ替えたりするとより強力なアク抜きになりそうだ。あと、大根の品種によっても違うかも知れない。また、これは番組でもやってたみたいだけど、この場合の「大根おろし」とは、正確にはその汁(液体)のこと。普段、例えば焼き魚のために大根おろしを擦りますね。そのとき、ザルでざっと水分を取ったりしたとき、出た汁を残しておいて(冷凍して)、それをこのときぞとばかりに使ってもいいそうです。私は、大根おろしの汁が余ったら、飲んじゃうけど。
もう少し、皮付きのタケノコが店先に並ぶでしょう。米ぬかでのアク抜きが面倒という理由だけでタケノコを食べずにいるタケノコ好きの方は、この「大根おろし法」でやってみてはいかが?
さて、4月の半ばを過ぎると、やっぱりタケノコです。でもタケノコは、アク抜きが面倒だ。かといって、すっかりアクが抜けきった水煮缶のようなタケノコは、中華なんかではしばしば登場し、その食感を楽しませてくれるが、本来タケノコは、このアクというかエグ味を感じて「あー、タケノコだー」と感じるものでしょ。しかし、そのエグ味は、ほどほどでないといけない。そこで、「自分でアク抜き」となる訳だが、これがなかなか面倒なものだ。
サムライ菊の助「畑日記」の4月12日のエントリ「竹の子の水煮は柔らかく煮てはいけない」を読むと、
「竹の子は、掘ってから30分以内にゆで始めなければならないのである」
とある。サムライ菊の助さんは、ツバキの葉を使う点も、特筆もの。そして他の人からもまた、
「タケノコ掘りに行くときは、台所で湯を沸かしながら、行くものだ」
と聞いたことがある。つまり、「タケノコは、掘ったとたんにどんどんアクが強くなる」ということなのだが、それを聞くと、正直「そらりゃー、恵まれてるぜ」と、東京に住む私は言いたくなる。どちらも、自分ちの、または仲のいい人の竹林がすぐそばにおありの方だからこそ言える台詞だからだ。私の場合、東京といってもちょっと郊外の昭島市なので、近所に竹藪(真竹だけど)があるが、(知らない)人様のものなので、そこのタケノコは食したことはない。また、孟宗の竹林のある公園なんかに行くと、「タケノコを掘らないでください」なんて立て札があったりして失笑する。公園の竹林でタケノコを掘った輩がいたということだ。夜にでも忍び込んだのか。まさか白昼堂々とはいくまい。何ともいい根性しているなと思うが、余程のタケノコ好きだったのだろう。(もちろん、泥棒はいけないことです。よい子の皆さんはくれぐれも真似しないように)
さてさて、前置きが長過ぎた。
きょうは、その面倒なタケノコのアク抜きの新技の紹介です。
先日、カミさんが、人から聞いた話として、「大根おろしでアク抜き」という方法でアク抜きしてくれた若竹煮を食したが、ちょうどいいアク抜き加減だった。ちなみに、この簡単な方法の出所は、「分とく山」の野崎さんが、NHKでやってたとのことだった。(「分とく山」には行ったことはないが、私にとって野崎さんは「きょうの料理」などでお馴染みで、その料理・お人柄などのファンの一人である)
したがって、カミさんも私もその番組を見た訳ではなく、聞き伝えであり、何となく「こんな風に理解していて、結果的にうまくいった」という方法を下記に記します。
- 「大根おろし(汁も一緒)」と「水」を1対1の割合でボウルに入れ、総量の1%の塩を加え、混ぜる。
- 皮をむいたタケノコを料理する大きさに切って、そのボウルに漬ける。(冒頭の写真)
- 1時間置いたら、タケノコをさっと水洗いして、料理に使う。
無論、大根おろしの量は、タケノコの量をみて加減してください。何しろ時間にして、1時間と少しあれば、生のタケノコの料理を始められる。火も使わず簡単だ。サムライ菊の助さんが忠告する「竹の子の水煮は柔らかく煮てはいけない」は、アク抜き段階でのことなので、この「大根おろし法」だと、料理の際に気をつければいいこととなる。
掘ってからの時間などによって、タケノコのアクは異なるから、大根おろしの量または濃度(水との割合)を変えたり、漬けてる途中で一度大根おろしを新しいのに入れ替えたりするとより強力なアク抜きになりそうだ。あと、大根の品種によっても違うかも知れない。また、これは番組でもやってたみたいだけど、この場合の「大根おろし」とは、正確にはその汁(液体)のこと。普段、例えば焼き魚のために大根おろしを擦りますね。そのとき、ザルでざっと水分を取ったりしたとき、出た汁を残しておいて(冷凍して)、それをこのときぞとばかりに使ってもいいそうです。私は、大根おろしの汁が余ったら、飲んじゃうけど。
もう少し、皮付きのタケノコが店先に並ぶでしょう。米ぬかでのアク抜きが面倒という理由だけでタケノコを食べずにいるタケノコ好きの方は、この「大根おろし法」でやってみてはいかが?
2016年4月12日火曜日
ベトナムのおじいちゃんの杖
先月、ベトナムへ出張した際、サイゴン(ホーチミン市)の知人宅に行った。彼は、以前下記のエントリでも書いた、私のココナッツの先生でもある。
●ココナツジュース、ベンチェー流 (2013年1月26日)
上記エントリにもあるとおり、その知人はベンチェーというココナツで有名な町の出身。それはこのエントリでは関係ないのだが、今回、私と同い年ぐらいの彼の父親と会う機会があった。その父親は、その日ベンチェーからホーチミンにやってきていた。「あ〜、(長い間バスに乗って)疲れたー」と椅子に腰掛けていたが、脇にあった杖が私の目に留まった。このおじいちゃんお手製の杖である。
私は、こーゆーのが滅法好きだ。
こんな小さな写真では、ディテールがよく分からないので、下の寄った写真を見て頂きたい。
これが取っ手。杖を持つところ。水道屋さんが使う水道管の継ぎ手だ。いわゆる「エルボー」と呼ばれるL字型のヤツ。これを本体の竹に固定するために、向こうとこっち2箇所を木ねじでとめてある。エルボーには、最初にキリのようなもので穴を開けた後、木ねじでとめたのだろう。そして、ポカンとあいてるエルボーの穴には、プラスチック製のビンの蓋のようなもので塞いである。廃物利用のお手本のようなものだ。これで手の平への負担が少なくなる。次に、杖が地面を突くところ。
オートバイのグリップだ。すばらしい。ご存じの方も多いと思うが、ベトナムでは、オートバイがたーくさん走っています。さらに下の写真。
竹の節の部分を削ってある。実に仕事が丁寧で、このおじいちゃんの性格を物語っているようだ。
以前、下記のエントリで書いたことがある。
●ドブロクのススメ(2014年1月30日)
その一部を引用する。
現代は、何でも「買う」ことが当たり前になってますね。便利って言えば便利だけれど、本当は、「自分で作る」がまずありきで、「自分で作れないもの」を「買う」ということだと思う。
この杖は、これがそのまま体現されている。
私のそのエントリでは、ドブロクについてだが、「自分で作る」がまずありき、には何ら変わりない。
言うまでもないが、私がこのおじいちゃんの杖を絶賛しても、おじいちゃんは表情ひとつ変えやしない。当たり前なのだ。そこに「カッコいい」という陳腐な言葉では言い表し切れないものがある。
これがベトナムの底力なような気がしてならない。
●ココナツジュース、ベンチェー流 (2013年1月26日)
上記エントリにもあるとおり、その知人はベンチェーというココナツで有名な町の出身。それはこのエントリでは関係ないのだが、今回、私と同い年ぐらいの彼の父親と会う機会があった。その父親は、その日ベンチェーからホーチミンにやってきていた。「あ〜、(長い間バスに乗って)疲れたー」と椅子に腰掛けていたが、脇にあった杖が私の目に留まった。このおじいちゃんお手製の杖である。
私は、こーゆーのが滅法好きだ。
こんな小さな写真では、ディテールがよく分からないので、下の寄った写真を見て頂きたい。
これが取っ手。杖を持つところ。水道屋さんが使う水道管の継ぎ手だ。いわゆる「エルボー」と呼ばれるL字型のヤツ。これを本体の竹に固定するために、向こうとこっち2箇所を木ねじでとめてある。エルボーには、最初にキリのようなもので穴を開けた後、木ねじでとめたのだろう。そして、ポカンとあいてるエルボーの穴には、プラスチック製のビンの蓋のようなもので塞いである。廃物利用のお手本のようなものだ。これで手の平への負担が少なくなる。次に、杖が地面を突くところ。
オートバイのグリップだ。すばらしい。ご存じの方も多いと思うが、ベトナムでは、オートバイがたーくさん走っています。さらに下の写真。
竹の節の部分を削ってある。実に仕事が丁寧で、このおじいちゃんの性格を物語っているようだ。
以前、下記のエントリで書いたことがある。
●ドブロクのススメ(2014年1月30日)
その一部を引用する。
現代は、何でも「買う」ことが当たり前になってますね。便利って言えば便利だけれど、本当は、「自分で作る」がまずありきで、「自分で作れないもの」を「買う」ということだと思う。
この杖は、これがそのまま体現されている。
私のそのエントリでは、ドブロクについてだが、「自分で作る」がまずありき、には何ら変わりない。
言うまでもないが、私がこのおじいちゃんの杖を絶賛しても、おじいちゃんは表情ひとつ変えやしない。当たり前なのだ。そこに「カッコいい」という陳腐な言葉では言い表し切れないものがある。
これがベトナムの底力なような気がしてならない。
2016年3月4日金曜日
香典なしの葬式とご祝儀なしの結婚式
先のエントリで少し触れたが、1月24日に親父が息をひきとった。私は塩を作っているので、その葬儀の際の「お清め塩」は、その塩にしたいと思い、そうした。上の画像は、そのラベル。
さて生前、親父はかねてから、「葬式は家族葬(知人・友人はもちろん、親戚筋も呼ばない)」、「香典なし」という希望があった。それを聞いて私は、「親戚も呼ばないのはあまりに難しいそう」と思ったので、話し合った末、何とか「親族葬(友人・知人には葬儀後通知)」、「香典なし」ということになった。
しかし、親族に「香典なし」は、親父の出身地・長野の多くの親戚の強烈な反感をかった。容易に予想される事態だったが、これも供養と思い、葬儀の連絡(電話)の際は、どの親戚に対しても最初は一律に「(故人の強い希望なので)香典なしで」と伝えた。「バカ野郎! そんなわけに行く訳ないだろ」と罵声を浴びまくって、正直辛かったが、粛々と次の親戚次の親戚と同様に伝え続けた。その後自分なりに考えてみると、だいたい、親父は生前、親戚の葬儀には必ず香典を持って行っているので、その罵声は当然と言えば当然とも言えた。死んだ親父が「ええかっこいしい」にも思えたし、習慣が変わるときの先駆者とはこういうものなのかなとも思えた。しかし、現実的に「香典なし」を全ての親戚に強要するまでは出来なかったので、怒られた後、結局のところ「問題のない方のみご遠慮ください」ということになった。
そして、葬儀後は、十数人の友人・知人への連絡などに追われた。親父の遺志は「(落ち着いた時点で)葉書で通知」だったが、これも「そうもいかないよな」と思って、葬儀が終わってすぐに電話連絡をあちこちした。でも、それなりに親父の希望は叶えたと思っている。やれるだけのことはやった。私自身も、「(香典含め)葬儀なし」という考えはあるので、親父の気持ちも分からなくもない。ただ、それにはそれなりのプロセスというか段取りがあった方が、親戚含め残された側は楽なのは確かだ。
親父の逝去から葬儀まで、一連の事々があったが、忙しくてなかなか感傷に浸る暇がなかった。医師の「ご臨終です」の後、家族は1〜2時間ぐらいしっとりしたが、その後、葬儀屋さんへ電話をしたぐらいから、次から次へと決めなければならないこと、しなければならないことが矢継ぎ早にあり、気持ちはほとんど仕事モードになった。以前誰かが「遺族が悲しみにくれないように、そうして忙しようになっているものなのだ」と言ってたのを思い出した。それだけに、感傷的にならずに常にクールな気持ちが続いた中、妙なことも感じた。
親父は、病院で息をひきとったが、それはどこか子供の誕生にも似てると感じた。誕生と死は対照的だが、(専門は異なるものの)病院という場所は一緒。そして誕生の際も死亡の際も、少しの時間の後、病院を出ないとならない。どっちの場合も、露骨には言われないものの、言葉の端々に、「出来るだけ早く出てってくださいね」という病院の意向を感じた。次から次へと生まれてくる子供がいて、次から次へと死んでいく人がいるからだ。そして、病院を出た後は、どちらもその後が大変になり、それまでさんざんお世話になった医師や助産婦、看護師の方々とはプッツリと関係なくなる。ちなみに、私には、二人の子供がいて、一人目は病院での出産、二人目は自宅出産だった。もしも親父が自宅で息をひきとったとしたら、どうなっていたのだろう、と想像してみる。言うまでもなく、病院と自宅では雰囲気の違いが大きいが、自宅で死んだり、出産したりした方が、せわしなさがグッと少ないことは確かだと思う。
そして、葬儀とその後のお清めの会食。これはどこか結婚式と披露宴に似ていた。葬儀の際は、親父とお袋の両家の親戚が集う。普段は接点のない両家親戚が、ひとつの葬儀に参列し、ひとつの部屋で会食をするのだ。葬儀は儀式的な型があるので葬儀屋さんの指示に従うだけだったが、会食は自分たちで仕切らねばならない。例えば、食事の手配から席決めなど。なるべく各人の席の近くに話しがしやすそうな人を配置するということだ。私は結婚式・披露宴はしていないのだが、その席をあれやこれやと考えていたら、「披露宴の席決めもこんなもんなんだろうな」と思った。また、先述の、葬儀を「香典なし」するときの風当たりも、結婚式の「ご祝儀なし」と似たようなものなんじゃないか、とふと考えた。
最近は、結婚式・披露宴のスタイルも変わりつつあると聞く。結婚式・披露宴にカネをかけるより、旅行にカネをかけたいと考える若い人が多いらしい。また、結婚式はひとつの「ケジメ」であり「覚悟」だと考える人もいる。ただ、どうであれ、離婚する夫婦は離婚するし、結婚生活も続きさえすればいいというものでもない。私は(集合住宅の集会場での)葬儀の準備をしていて、こういうスタイルの葬儀はどのくらい前から行われるようになったのだろうか? そして、今後どう変わっていくのだろうか? と思った。
そして、もうひとつ、後からつくづく思ったこと。
そして、当然のことながら、自分の葬儀について考える。まぁ、こうして何やかんやで、少しずつ世の中の習慣というものは変わっていくのだろう。次は四十九日の法要と納骨だ。
さて生前、親父はかねてから、「葬式は家族葬(知人・友人はもちろん、親戚筋も呼ばない)」、「香典なし」という希望があった。それを聞いて私は、「親戚も呼ばないのはあまりに難しいそう」と思ったので、話し合った末、何とか「親族葬(友人・知人には葬儀後通知)」、「香典なし」ということになった。
しかし、親族に「香典なし」は、親父の出身地・長野の多くの親戚の強烈な反感をかった。容易に予想される事態だったが、これも供養と思い、葬儀の連絡(電話)の際は、どの親戚に対しても最初は一律に「(故人の強い希望なので)香典なしで」と伝えた。「バカ野郎! そんなわけに行く訳ないだろ」と罵声を浴びまくって、正直辛かったが、粛々と次の親戚次の親戚と同様に伝え続けた。その後自分なりに考えてみると、だいたい、親父は生前、親戚の葬儀には必ず香典を持って行っているので、その罵声は当然と言えば当然とも言えた。死んだ親父が「ええかっこいしい」にも思えたし、習慣が変わるときの先駆者とはこういうものなのかなとも思えた。しかし、現実的に「香典なし」を全ての親戚に強要するまでは出来なかったので、怒られた後、結局のところ「問題のない方のみご遠慮ください」ということになった。
そして、葬儀後は、十数人の友人・知人への連絡などに追われた。親父の遺志は「(落ち着いた時点で)葉書で通知」だったが、これも「そうもいかないよな」と思って、葬儀が終わってすぐに電話連絡をあちこちした。でも、それなりに親父の希望は叶えたと思っている。やれるだけのことはやった。私自身も、「(香典含め)葬儀なし」という考えはあるので、親父の気持ちも分からなくもない。ただ、それにはそれなりのプロセスというか段取りがあった方が、親戚含め残された側は楽なのは確かだ。
親父の逝去から葬儀まで、一連の事々があったが、忙しくてなかなか感傷に浸る暇がなかった。医師の「ご臨終です」の後、家族は1〜2時間ぐらいしっとりしたが、その後、葬儀屋さんへ電話をしたぐらいから、次から次へと決めなければならないこと、しなければならないことが矢継ぎ早にあり、気持ちはほとんど仕事モードになった。以前誰かが「遺族が悲しみにくれないように、そうして忙しようになっているものなのだ」と言ってたのを思い出した。それだけに、感傷的にならずに常にクールな気持ちが続いた中、妙なことも感じた。
親父は、病院で息をひきとったが、それはどこか子供の誕生にも似てると感じた。誕生と死は対照的だが、(専門は異なるものの)病院という場所は一緒。そして誕生の際も死亡の際も、少しの時間の後、病院を出ないとならない。どっちの場合も、露骨には言われないものの、言葉の端々に、「出来るだけ早く出てってくださいね」という病院の意向を感じた。次から次へと生まれてくる子供がいて、次から次へと死んでいく人がいるからだ。そして、病院を出た後は、どちらもその後が大変になり、それまでさんざんお世話になった医師や助産婦、看護師の方々とはプッツリと関係なくなる。ちなみに、私には、二人の子供がいて、一人目は病院での出産、二人目は自宅出産だった。もしも親父が自宅で息をひきとったとしたら、どうなっていたのだろう、と想像してみる。言うまでもなく、病院と自宅では雰囲気の違いが大きいが、自宅で死んだり、出産したりした方が、せわしなさがグッと少ないことは確かだと思う。
そして、葬儀とその後のお清めの会食。これはどこか結婚式と披露宴に似ていた。葬儀の際は、親父とお袋の両家の親戚が集う。普段は接点のない両家親戚が、ひとつの葬儀に参列し、ひとつの部屋で会食をするのだ。葬儀は儀式的な型があるので葬儀屋さんの指示に従うだけだったが、会食は自分たちで仕切らねばならない。例えば、食事の手配から席決めなど。なるべく各人の席の近くに話しがしやすそうな人を配置するということだ。私は結婚式・披露宴はしていないのだが、その席をあれやこれやと考えていたら、「披露宴の席決めもこんなもんなんだろうな」と思った。また、先述の、葬儀を「香典なし」するときの風当たりも、結婚式の「ご祝儀なし」と似たようなものなんじゃないか、とふと考えた。
最近は、結婚式・披露宴のスタイルも変わりつつあると聞く。結婚式・披露宴にカネをかけるより、旅行にカネをかけたいと考える若い人が多いらしい。また、結婚式はひとつの「ケジメ」であり「覚悟」だと考える人もいる。ただ、どうであれ、離婚する夫婦は離婚するし、結婚生活も続きさえすればいいというものでもない。私は(集合住宅の集会場での)葬儀の準備をしていて、こういうスタイルの葬儀はどのくらい前から行われるようになったのだろうか? そして、今後どう変わっていくのだろうか? と思った。
そして、もうひとつ、後からつくづく思ったこと。
私の親父の場合、ガンで死ぬ3ヶ月ぐらい前から見る見るうちに容体が悪くなった。元気な頃、親父の方から「葬儀は家族葬」と言われたので、「親戚を呼ばないのはちょっと‥‥」ぐらいまでは話し合ったが、元気な人に向かってそれ以上、「死んだら・・・」の話は突っ込めなかった。私自身、具体的なことまではよく分かっていなかったし、調べようともしなかった。そして、容体が悪くなってからは、葬儀の話しなんか出来やしない。つまり、葬儀などでヒーヒー言いたくなかったら、たとえ抵抗があっても元気なうちにしか話せませんよ、ということなのだが・・・・。そもそもこういうことは、ヒーヒー言うのもなのかも知れないと、同時に思えもする。
そして、当然のことながら、自分の葬儀について考える。まぁ、こうして何やかんやで、少しずつ世の中の習慣というものは変わっていくのだろう。次は四十九日の法要と納骨だ。
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